大瀧賢志さん

東京からUターン_中華料理龍鳳(家業を継ぐ)

家業の中華料理店「龍鳳」を継ぐために東京からUターンした大瀧さん。酒田に戻ってきた当時の気持ちや、忙しいからこそ見つけられた「楽しさ」について、率直にお話してくれました。

都会に憧れて東京へ

高校卒業後に酒田を出て東京で就職しました。目標や就きたい仕事があったわけではなく、ただシンプルに東京に行ってみたかった。自分も都会に出て何かに挑戦したい!みたいな、そんな気持ちでした。上京後は建設会社に就職して3年ほど働いた後、吉本興業の芸人養成所に入りました。学生時代から人を笑わせるのが好きだったので、お笑い芸人にチャレンジしました。養成所の同期とコンビを組んで実際に渋谷の劇場に立ったこともありました。大勢の人を笑わせたり、ときには思いっきり滑ったりと、なかなか良い経験ができましたね。お笑い芸人をしながら居酒屋や飲食店でバイトをして、20代前半は自由気ままに、とにかく楽しく日々を過ごしていました。でも、実家が中華料理屋をやっていることもあり、いずれは帰って後を継がなきゃという気持ちもどこかにありました。25歳になったあたりでふと、そろそろ実家に帰ろうと思い立ちました。それで東京にいるうちに少しでも中華料理について学んでおこうと思い、2年くらい中華料理屋やラーメン屋で働いて経験を積んで、27歳で酒田にUターンしました。ちょうど元号が平成から令和に切り替わるタイミングだったので、当時のことはよく覚えています。

 

戻ってからは自己投資の時間

酒田に戻ってすぐ家業の中華料理屋で働くようになったのですが、料理の技術やお店の経営について覚えることがいっぱいで、とにかく忙しかったですね。また、東京と比べてしまうとどうしても酒田って娯楽が少ないので、戻ってきたばかりの頃は正直、つまらないな、退屈だなと感じていました。でも、自分は家業をやるために戻ってきたわけなので、中途半端に娯楽を求めずに自己投資をしようと気持ちを切り替えました。自己投資、つまりは勉強ですね。料理や経営、会計に関する本をとにかくたくさん読みました。これまで勉強なんてほとんどしてこなかったので、帰ってきたことをきっかけに必要なことをちゃんと学ぼうと思いました。地元の友達も結婚して家庭を持っている人が多くて、自分もいつまでも遊んではいられないなって。せっかく東京に行ったのにまた地元へと戻ったことについて、自分としては心の底に敗北感のようなものがありました。今はもうそんな気持ちはないですけど、当時は気にしていましたね。東京の友人たちに「あいつは地元に帰って終わったな」って思われたくない、そんな一心でがんばっていた部分もあります。酒田に戻ったとき、夜空を見上げて「月がでかい!」って感じたんです。東京では都会の灯りが強くてよく見えなかった月や星が、大きく輝いて見えたのが印象的でした。自分もここ酒田で輝きを放ちたい、そんな気持ちになりましたね。

 

Uターンをきっかけに、楽しさの質が変わった

酒田に戻ってから3年が経ち、今ではメインで料理を作るなどお店の業務全般を任されるようになりました。また、「とにかく売れたい中華料理屋」というYouTubeチャンネルも始めて、美味しい中華料理の作り方や調理器具の使い方などを発信しています。登録者数が全然増えなかったら止めるつもりでしたが、目標である10万人超えを達成できました。再生数が100万回を超えることもあったりと、思っていたよりもずっと反響があって、面白かったとか、役に立ったというコメントも多くいただいています。それに動画を見てファンになり、実際にお店に来てくれたというお客さんもいて嬉しかったです。お笑いをやっていた頃に鍛えられたトーク力や発信力が、今になって生かせているのかなと思います。

忙しい日々ですが、東京にいた頃とはまた違った楽しさを実感しています。20代前半の頃も楽しかったですけど、責任がないがゆえの気楽さというか、どこか空っぽな感じがしていました。酒田に戻ってからは売上もそうですが、目に見える成果を出していかなければならない。そんな中で課題だったり目標だったりと、目指していくことが具体的に見えてきました。楽しさの質が変わって、今は「大変だけど中身のある楽しさ」を実感しています。

 

Uターンを考えている人にメッセージ

私の場合、環境が変わったことによって生活習慣や目標に対する姿勢を切り替えることができました。もともとすごく面倒くさがり屋なのですが、酒田に戻ってきたことによって、自分がこれからやるべきことに集中できました。人生の節目というか、Uターンや移住は自分が変わるきっかけになると思います。

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